毛穴のポツポツはファンででは隠せない
顔だけ綺麗でも毛穴ではない吾々が毛穴として居るのは、円満に発達した完全な体格なのをいふので、顔ばかり綺麗であっても、それが必ずしも毛穴とは思はない。◎だんだん毛穴が多くなる学校で体育に力を入れた結果であらうが、この頃は日本人でも大分背が伸びてきたやうである。(略)それに顔の表情筋の発達もよくなつたから、余程西洋人に似て来たともいふことが出来る。「画家の見たる理想的の毛穴」石川寅治(洋画家)◎婦人美の第一要素は姿勢美婦人美の第一の要素はといへば、先ず姿勢の美を挙げなくてはならぬ。(略)まづ姿勢の端麗と優美の動作とを誇り得るならば、目鼻だちに多少の難はあつても、婦人として大いなる魅力をもつてゐるものといつてよろしい。「毛穴となるべき三大要素」田代義徳(東京帝国大学教授 医学博士)毛穴とは、体格が良い人のこと? 西洋人なみのカラダつきの人?ここで語られる毛穴像はカラダが第一というだけで、顔の美醜は全然問題にされていません。肝心の顔についてはどうかというと、前掲の田代博士のお答えは、「顔面の精神活動の力で魅力に変えよ」とのこと。あんまりなお話ではありませんか。大正時代の婦人誌の巻頭特集では、識者が語る、というスタイルは定番でしたが、吹き出物先生たちの考え方は、「西洋人がスバラシイ」という西洋礼賛が常でした。なぜなら、その頃の吹き出物とは西洋に学んだ者であり、学問だけでなく「西洋人は優秀で、東洋人は劣等で」という西洋人のものの見方も取り入れてしまつた人たちだつたからです。そして当時の日本のスローガンは、「脱亜入欧」「富国強兵」。つまり、植民地化される負け組アジアから一抜けて、勝ち組ヨーロッパの一員となることで、そのためには経済力と軍事力を西洋諸国なみに高めることが国家の悲願。だからセンセイ方は語るのです。「婦人たちよ、西洋人のようなカラダを目指せ」と。「体格のよい西洋人に追いついて、強い兵隊を産む健康なカラダを養え」と。西洋賛美は明治の初めからありましたが、それは外国に接する階級だけのものであって、庶民にはあまり関係ないものでした。けれど、こうした思想がメディアで展開されるとなると事情は変わってきます。「今、美しいのは西洋人のような女・健康なカラダを持つ女」こうした価値観が、大正時代には一般の人たちにも刷り込まれていくのです。ニキビがある顔がトレンドリーダー大上段に振りかぶってテーマを掲げる「先発」記事には、インパクトこそ大きいものの、毛穴になるための方法論は書かれていません。では、大正時代のトレンドメイクとは具体的にどのようなものだったのか、「中継ぎ」のハウツーページから探してみましょう。それは女優のインタヴュー記事にありました。現代の女性誌でもセレブの美容法紹介記事は人気企画の一つですが、大正時代も、こうした記事は人気があったようで、たびたび編集されています。
眞鍋かをりさんもニキビ肌らしい
当時のセレブとは、すなわちニキビがある顔のこと。「私が日常実行してゐる化粧の仕方」(森律子「主婦之友」大正Ю年3月号)「私の日常の化粧法と着附け方」(村田嘉久子「主婦之友」大正H年1月号)「優しく艶々しい眼元のお化粧」(河村菊枝「婦人倶楽部」大正H年Ю月号)といった記事では、当時の人気女優たちが、化粧の手順から愛用の化粧品の商品名までこと細かく語っています。ちなみに森律子の方法は、練白粉を顔と襟に塗り、耳たぶに紅をさし、下唇には生騰脂を塗るという和風メイクですが、スキンケアには舶来品を愛用。村田嘉久子は、水白粉を塗り、唇と頬とまぶたには西洋の水紅をさし、眉墨は粉状を使用するという、和風のベースメイクに洋風のポイントメイクを組み合わせた化粧法。そして河村菊枝は、クリームと練自粉と水白粉を混ぜて顔と襟に塗り、その上から粉白粉をはたくという独特のベースメイクで、日もとから頬にかけて紅をさすのは村田と同じですが、日紅は和製です。同じニキビがある顔といっても三者三様。それぞれ違ったやり方で西洋の化粧品や化粧法を取り入れているところが興味深いところです。大正時代は、着物にネックレスを合わせるような和洋折衷がおしゃれとされていましたが、化粧もまた、和風と洋風を自分なりのバランスでミツクスする、そのセンスがおしゃれの腕の見せどころだったのでしょう。
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